へぇ~ほぉ~なるほどぉ~そうなんだぁ~そして最後にくすっ!と笑わせて下さる<久留米じいじ>さんのブログで、着物(絹、綿)のことに触れていらっしゃいました。
江戸時代の生活はエコロジーだった。例えば着物、、、と続きます。
今でこそ、化繊の着物がありますが、昔は、着物と言えば絹または木綿でした。
自然の物としてはウールもありますが、ウールの着物の歴史は昭和からのスタートです。
私は、幼少期、群馬の山間部で育ちました。
私が幼稚園に入る前頃までは、季節によっては養蚕をしておりました。
こんなキャラクターが居るほど群馬では養蚕が盛んだったということですね。
蚕(カイコ)のことを<おこ様>と様付けで呼んで、せっせと桑を与えて大切に育てていました。
おそらく、おかいこ様 → おかいこ様 → おこ様 。
幼い記憶をたどると、白い芋虫といったお姿の<おこ様>は、そろそろ繭を作ろうとなると、透き通った感じになってきます。
そのように変化してきた<おこ様>を別室(個室)に分けていました。
一匹づつ、優しく手で拾っていく作業でした。
今思うと、ゾッとしますが、もちろん、今は触れないと思いますが、幼い頃はそれを手伝った(?)記憶があります。
子どもの柔らかい手で触れるのが、<おこ様>にも負担が少なかったようで、しがみついている状態の<おこ様>を上手くつかむことが出来ました。
”偉いね。お手伝いが出来て。”と誉められたので、覚えています。
その頃、東京に出稼ぎ中の母も、その時期に帰ってくると手伝いはするのですが、<おこ様>を怖がるので、かえって<おこ様>を傷つけてしまいます。
”〇〇〇はしなくていい!〇〇子の方がずっと役に立つ。”と叱られていました。
笑える思い出です。
それでも、皆が忙しくしているので、母も何とか手伝おうとしていました。
母の作戦は、
蚕には、頭の両側に、目のように見える黒い●があるのですが、まれにそれが無い子がいます。
真っ白です。
母は、白い子は怖くないということで、滅多にいない白い子を探しては作業していました。
今、母が私に感じる ”何やってるんだか、この子は。” という気持ちを祖母も感じたに違いないと思うと、クックックッ、、、笑いが、、、。
出荷しなかった(出来なかった?)繭を、祖母が大きな鍋で煮て、繭をほどすように糸を引いていた姿を覚えています。
母の話によると、祖母は機織りも上手で、自分でデザインした縞柄を織っていたそうです。
どこの家庭でも同じようで、それぞれ独自の縞柄を<自縞>というそうです。
久留米じいじさんのおっしゃる通り、着物は、母から娘へと譲られて、長く着ることが出来ます。
汚れると、生き洗いをしたり、ほどして、洗い張りをしたり、染め変えたりして、大事に着るものでした。
着物をほどす時も、
”昔の人は、この縫い糸(絹糸)をなるべく長く抜いて、また使ったものなんだよ。”
と、母は言います。
でも、そう言う母もチョキチョキ切ってしまいます。
それでも母には、もったいないという気持ちはあります。
私になりますと、”そんなこと、面倒でやってられないよね。”となります。
物が豊富にある時代に生きていれば、当然に考え方が変わって行くのも仕方のないことだと思います。
そして、今は、逆に考え方を変えなければならない時にきています。
クジラの胃から100キロものプラスチックのゴミが出てきたという悲惨なニュースを知れば、便利なプラスチック製品を使い捨てにしていたことを反省せざるを得ません。
取り合えず、私の出来ること。
* エコバック
* 木のストロー
* 水筒
そして
* 絹の着物
お手入れは大変ですが、母から、先輩から頂いた絹の着物を大事に着ようと思います。
仕立ては無理でも、裾がすり切れた(歩く度の足との摩擦で擦り切れます)時の裾の切り上げの仕方くらいは母に教わっておかないと!と思っています。