母と私は、新橋でカラオケのあるお店を長くしておりました。
(1980年9月 開店 2017年1月 母が乳癌のため廃業)
私がこれまで見聞きした中でも、別格に心に染みたお話です。
私に ”お父さんと呼んでくれ” とおっしゃったAさんの無邪気を通り越した純真さに胸を打たれました。
Aさんは、実はアルコールがあまりお強くはなく、お酒よりも炊き立てのご飯が好きな方でした。
ある日、”ご飯を食べさせてくれれば毎日来られるのになぁ~” とおっしゃいました。
母の店は、カウンターだけのカラオケのあるお店にしては、お通しに母の作った煮物(正しくおふくろの味)が出るような、他とは変わった店でしたので、母も、”いいわよ” と、なりました。
早速、電気炊飯器を買ってきたAさん。
炊き立てのご飯を塩昆布で満足そうに召し上がっていらっしゃいました。
その後、やれ、牛肉を焼いて欲しいとか、大好きなタカベ(お魚)が食べたいとか、わがままにはなったのですが、売り上げにはなりますし、母も頑張って対応しておりました。
時々、”だったら、よそへ行けば” とは言っておりましたが、、、
ある日の金曜日に、Aさんから電話があって、ご飯を炊いて、おにぎりを作ってほしい。それを持って新幹線に乗るというのです。
駅弁は味気ないので、ほんのり温かい母のおにぎりをお弁当にしたいとのことでした。
金曜日の夜に出張とは、少し変です。
ある人を探しに広島まで行くのだとおっしゃいます。
Aさんは、広島に原爆の落ちたその日、まさに広島にいらして、探しておられるのは、そのときご一緒にいた女の人です。
ピカッとしたその瞬間、隣で寝ていたその女の人は、Aさんの上にかぶさり守ってくれたのだそうです。
まだ、売春防止法が施行される前のことです。
その人は、苦界に身を置く人でした。
Aさんは、被爆者とは思えないほどにお元気な方でしたので、とても驚きました。
戦後、少し落ち着いたときから、Aさんはその方を探したそうです。
大阪で就職された時も、そして、会社が合併して、本社が東京になったために、東京にお住まいになってからも、時間を見つけては広島に通って探されていたと言います。
奥様とご結婚されるときも、そのお話はなさって、もしも、その方が生活に困っているようなことがあれば援助することは奥様もご承知とのことでした。
何度、おにぎり弁当をお持ちになって出かけられたでしょうか?
ついに、その方を探し当てられました。
探し始めてから、40年近くたっていたのではないでしょうか。
入院されていました。
もちろん、被爆されています。
ただ、少し、ほっと致しますのは、その後、結婚されて、お子様にも恵まれていらしたそうです。
でも、お名前が変わっていたことも探すのを難しくしていたのだと思います。
ご主人は、既にお亡くなりになっていたそうです。
その後も何度もお見舞いにいらしていました。
ご家族の方には、亡くなったご主人に大変お世話になった者ですと申し上げたそうです。
息子さんも良い方で、お見舞いに伺う時は息子さんの家に泊めて頂くようになりました。
Aさんが、どれだけのことをなさったかは想像がつきます。
まもなく、その方はお亡くなりになりました。
あんなに必死に探していた割には、淡々となさっていました。
出来るだけのことはしたというお気持ちだったのかも知れません。
Aさんが見つけ出すまで、生きていて下さってありがとうございます。
無邪気にさえ見えるAさんが、心に重い石を抱えたままなのは可哀想です。