<背負い水>という言葉があります。
私が初めて耳にしたのは、萩野アンナという作家が芥川賞を受賞したとき(1991年)で、その作品のタイトルが<背負い水>でした。
なぜか、この言葉が気になって調べた記憶があります。
私の中での<背負い水>は、
人は、生まれる時に、自分の一生分の水を背負って生まれてくる。その量は、全ての人に平等に同じ量である。
つまりは、幸せ(運)の量もみんな同じで、みんな平等。
というものです。
私はこの言葉に励まされてきました。
幸せそうに見える人に悩みがない訳ではなく、人それぞれに色々あるのです。
羨ましいと思うことはあっても、僻みや妬みのストレスに襲われないのは、この言葉のお陰かもしれません。
私は、生まれて間もなく父を亡くしています。
母は実家に戻って、私を祖父母に預け、東京に出稼ぎ。
可哀想と可愛いが重なって、祖父母には溺愛させましたし、子供のことですので、自分が不幸だと感じたこともなかったのですが、客観的にみると、父を亡くし、母とも離れての生活は、とても不憫な幼少期です。
つまりは、私は幼少期に背負い水を減らしていないのです。
このことは、かなり私を勇気づけてくれます。
今も幸せですし、老後も幸せに違いない!
お金持ちの家に生まれても、家族間がギスギスしているなどというはドラマの定番ですし、狭いながらも楽しい我が家というフレーズも聞いたことがあります。
居ない子には泣かされない(子供に恵まれなかったご夫婦に子育ての苦労は無い)などとも言います。
ところが、今回、改めて<背負い水>を調べましたら、
人は生まれてくるときに、一生分の水を背負って生まれてきて、その水を飲み終えたときが死ぬとき とありました。
あれ?なに?私を励ましてくれた<背負い水>とは違います。
落語の<死神>の蝋燭のように、消えたら死ぬ みたいな恐ろしい印象すらします。
水を大切に使いなさい。物を大事にしなさい。という教えなのだとか。
以前、調べたときに私の思い込みが加わって、私独自の<背負い水>になってしまったようです。
<背負い水>という小説を読まなかったのも良くなかったのかもしれません。
反省し、今朝、Amazonで注文しました。
でも、私の<背負い水>が私を励ましてくれたことも事実ですし、私の<背負い水>は、きっと他の人を励ますことだって出来ると思うのです。
私、これを広めたいなぁと思います。
言葉は多数決です。
”すごく美味しい” ”すごく素敵” とかって普通に使いますが、”すごい” は本来、お化けに使う言葉でした。
”陰にこもってものすごく” が正しい使い方です。
”やばい” の使い方も変わってきていますね。
コミュニケーション手段なのですから、大多数の認識が共通であれば良いのではないでしょか。
でもでも、”よっ!ななだいめ(七代目)” とかは勘弁してほしいとは思ってしまいます。
あれは、”しちだいめ” です。
大好きだった先輩の影響で、ダサ~いと感じてしまいます。